2014年10月3日金曜日

イライラとか怒り


自分の怒りを自分の中に留めておくことって、けっこうある。
それ以前に、自分の中に怒りがあることすら気づかないが多い。


前に、相方からイライラをぶつけられた時、
その瞬間、自分の中に全て引き受けた。
そして、自分を修正して、相手に合わせようという動きが起こった。

自分の中に引き受けてしまうと、
どうしようもなくなって、自分を否定して、落ち込む。

落ち込んだまま、一人になってみた。
よくわからないモヤモヤで満たされたまま、一人になった。

家に帰った途端、食べようと手に持っていたシュークリームを
テーブルに投げつけてしまった。
投げつけて気がついた。

わたしは、腹が立っていたんだ。
それに気づくと、ちょっと落ち着いて、つぶれたシュークリームを食べながら、
「わたしはなんで腹が立っているんだろう」ということに目を向ける。


落ち着いて、それまでに起こったことに目を向けてみると
ちょっとずつ自分の中を整理できる。

しばらくすると、
相方から言われたことは、全くその通りだと思えて、納得できた。

それでも、まだ納得のいかないところが残っている。
それは何だ?

しばらく自分の中を探ってみると、それは、相方の言動に対してだった。

その後、相方に向かっていった。
私の中にある納得出来ない言動について、なぜそうしたのかを相方に尋ねた。

相方の答えは、
「めっちゃイライラしたから。言い返されるだろうと思っていたのに、
返ってこなかったなーって思ってた」

という答えだった。
そうかーなるほど。
相方はそこまでイライラしてたのか。
しかも、ちょっと言い過ぎているということも承知のうえで
その言動をとっていたのか。

相方の答えを聞いたところで、わたしはすっきりとした。

まあ、そこまで、ベコベコにされたことに関しては
「悔しい!」という感じは残っているけど。
それは、勝負に負けた感じのちょっとさわやかな悔しさだった。


怒りを外に現すことで、自分を認識し直せる。
怒りをぶつけることで、自分という輪郭がちょっとはっきりしてくる。

自分の中から出てくるイライラ・怒り。
これまでは、怒っている人見ると怖かったし、
たぶん良くないものとして見てた気がする。

イライラとか怒り、それをそのまま、感じられたり、外に現すことができたら
怒りというものに対して、見方が変わってくるのかもしれない。



昨日のブログに引き続き、ぶつかることで見えてきたものを綴ってみました。




2014年10月2日木曜日

相方とぶつかること



わたしと相方は、”自分を生きる”ということに注意深く暮らしている。

お互いに自分を生きようとしている二人が生活を共にしているので、
ぶつかりが起こることも少なくない。

何が原因でぶつかるのかは、その時々で違うけれど、
「あの時は、なんでぶつかったんだっけ・・・」
みたいな感じで、はっきとは思い出せない。

おそらく、相手の何かしらの言動に対してイライラしてしまう
ということなんだろうと思う。

相手の言動に対して、自分の中に「なんか変だなぁ」とか、
「なんとなく納得出来ない」みたいなことが生じると、
もう普通には接していられなくなって、
相手にぶつけるしかなくなってしまう。

一度ぶつけてしまうと、
そこからお互いがすっきりとするまで、
とことん話すということになる。
やっとのことで、いいところまで話せて解決できたかなーとか思っても、
その後、またぶつかって、と、繰り返すことが本当に多い。

この間も、「なんでこんなにぶつからないといけないんだろうか」と思うぐらい
本当にヘトヘトになるまで、話をしあって
「わたしたちって体力あるよね・・・」
という言葉が思わず口からこぼれた。

今のわたしたちにとって有難いことは、
そういった行程を一つ一つ踏める時間を確保できるということだ。
もちろん仕事や家事は滞ってしまうのだけれど。
そういった行程をはずさず、ないことにせずに、
向き合っていこうというところは、確認がとれているので、それが有難い。


日常の中で、些細なすれ違いが起こる。
それを一つ一つを確認するというのはなかなかできることではない。
確認することで、そのことを蒸し返してしまうしんどさもあるし、
自分さえ気にしなければいいんだと思おうとすることってけっこうあると思う。

そうやって、過ぎてしまったとしても、
そのすれ違いによって自分の中に生じた気持ち(不安とか怒りとか)は、
ないことにはできない。(ないことにしてしまうことが多いのだけど)
その気持ちをきちんと見た上で、
相手に確認をとりにいくのか、自分の中で済ませることなのか
選んだらいい話だなと思った。

これからも、相方とのぶつかりは、たくさん起こるんだろうなーと思う。
その一つ一つにきちんと”自分“として向きあえるように
日々、鍛えていかなきゃなー。
「相方は、一番のライバルだっ」
そんなことを言い合っている、最近です。。。




2014年9月17日水曜日

話を聴いてくれる人



たった一人でもわたしの話を聴いてくれる人がいることで、
わたしは元気になる。

誰かとの関係の中で生きている”わたし”を、見てくれる。
わたしが思っている”誰か”のことを一緒に見てくれるわけではなくて、
誰かのことを思っている”わたし”と一緒にいてくれる。
ただ、ただ、一緒にいてくれる。
わたしは、とても温かくなって、元気になる。

誰かのことを思っている”わたし”を大事にしてもらった感覚になって、
そうするとわたしが思う”誰か”のことも一緒に大事にしてもらった感覚になる。
わたしは、とてもうれしくなる。


だれでも、たくさんの”誰か”との関係性の中で生きている。
悩んだり、困ったり、悲しくなったり、イライラしたり、嬉しくなったり、元気になったり
その関係の中で起こっていることだ。

産まれた瞬間から、親子の関係性の中で生きていく。
そして、たくさんの関係性を心に持ちながら、見守られながら、たった一人で死んでいく。


誰だって、”誰か”との関係性の中で、懸命に生きている。
振り回されたり、揺らされたりしながら、
その中で自分はどう生きていくのかと、自分で答えを出しながら進んでいく。
これでいいのかと問いながら、迷いながら、進んでいく。


もう、ただそれだけで、尊いこと。





2014年9月10日水曜日

始めること。やめること。



「何かを新しいことを始めようと思うときは、
今やっているものを何か一つでも二つでもやめることがポイントだよ。」

ということを知人から教えてもらった。

その知人曰く
「そのぐらいしないと、新しく始めることに対しての集中力が高まらない。
そして、それを公言しておくと、それについての誘いが来なくなるから、
身の回りの状況から、集中できる状態ができる」
とのことだった。

”やめる”となると、
けっこう大きな決意しなきゃみたいになってしまいそうだけど、
一度それを決めることが重要で、落ち着いてまた始めたくなったら始めたらいい。

新しく始めようと思っていることに集中できる状況を
そのようにして作り出すといいということだった。


そして、
「仕事も遊びのようなものだ。人生もしかり。」
そう言い切っていました。


そうかー。


子どもの時の遊びも、めっちゃ本気で遊んでたよなー。
時間なんて忘れて、
勝負に負けて悔しがって泣いたり、馬鹿にされていじけたり、お腹抱えて笑ったり。
それを客観的に見てどうかとか思うことなんて全くなく、
その時間が全てだった。

そのぐらい本気で、
時間忘れるぐらい集中して
何かをなせたら、すごい世界が広がりそう。
そして、人生、面白いことが増えそうな気がする。



今、わたしは何を始めようとしていて、何をやめるのか。


2014年9月8日月曜日

励ます言葉


相方が落ち込んでいる時
励まして、元気づけたりしたくなっている自分がいた。

彼から出た、「どうしよう」という言葉に
何気なく、励ますような言葉を返して
そのままその時間は、過ぎていった。
彼はそこから言葉を発しなかった。


それにも気づかず、何も話さないな−なんて思って、なぜ?と尋ねてみたら
彼から出た言葉は、
「さっき話そうとしたけど、聞いてもらえなかった」
という一言だった。


そのことで気づいた。

わたしが発した励ます言葉は、
一見すると、彼のためかのようであるけれど、そうではなかったんだーと。
事実、彼はその言葉で、聞いてもらってない感じを受けた。
なぜわたしはその励ます言葉を返したんだろう。

それは、
彼の「どうしよう」という言葉を受け止めきれなかったからだと思う。
その「どうしよう」という感じを、一緒に味わうのはちょっときついから
わたしは、なんとか、それ以上沈まないように、励ます言葉を返したのだ。
(その時にこんな風に考えて言葉を出したわけではないけど、今思い返すとそう言葉にできる)

そして、彼に言葉を飲み込ませておいて
何も話さないということを彼が選んでそうしたかのように見ていたわたし。

これって、すごい自分勝手なことしてるなと思った。


わたしに出来たことは、
「どうしよう」を一緒に味わうことだったのだと思うし
もう少しその中身を聞いていくことだったのだと思う。
彼の「どうしよう」は、わたしが思う「どうしよう」とは、
違ったところにあるのかもしれないのだから。

そして、そもそも、励ましたり、元気づけたりすることって
こちらから発っしてできるものではないのかもしれない。

そうしたくなる気持ちは気持ちとして持っておきながら、
じっくりその感じにつきあって、同じ景色を見て、その感じを味わう。
そうしたら、勝手にその人は、元気にもなるし、次へ向かいはじめるのだと思う。

次への向かい方なんて、その人にしかわからないわけだしなー。

何気なく発した言葉から、自分の中の動きを見つめることになった昨日の出来事でした。


2014年9月4日木曜日

形と中身


最近、忙しくなってきた。
夜中まで打合せしてたり、ご飯も抜いたりするくらい。
でも、全然嫌じゃない。むしろなんかエネルギー湧いてきたりしてる。

これまでは、毎日、同じ時間に起きて、きちんとご飯食べて、夜更かしせず寝るみたいな
生活をよしと思っていたところがある。
だから、たまに夜更かししてしまって朝寝したり、生活のリズムがきちんと作れないことに対して、ダメだーとネガティブに思っていた。
だからきちんとリズムのある安定した生活を送るために、あまり疲れ過ぎないように静かに生活していたような感じがあった。

思い返すと、その生活は、何か物足りないような、つまらないような、そんなことを感じていたような気がする。

今は、生活のリズムめちゃくちゃだし、ご飯もきちんと食べれないことが増えてきてるのに、逆にエネルギーあがっていて、なんだか生きてる感じがする。


なんだろうなーと考えてみた。


「きちんとリズムのある安定した生活」という表面的な形を見ていたんだな−と思った。
形だけ見ていて、「そう出来ていない」状態に対して、ダメだーと自分を否定したり、がんばろーと意気込んでみたり、その原因を探してみたり。

重要なのはそこじゃなくて、中身の方なんだなと思いかえした。
中身が伴わないから、朝起きれないし、一日時間があってもグダグダしてしまったり。
そうしたあとは、なんか自己嫌悪に陥ってみたり。

今は、すごいいろんなことが起こっていて、日々起こることを一つ一つ整理できないまま過ごしている感じがある。
洗濯物たまりまくり。昨日は、たまった洗濯物を半日がかりで終わらせた。夜ごはんも食べずに夜中まで話していたり。
人と意見が合わずぶつかりあったり、自分の気持ちを上手く伝えらなかったりで、気持ちがあがったり下がったり。

全然安定してない。

でも、なんだか生きてる感じがする。生きているのに忙しい。そんな感じ。

それって幸せなことだなと思った。

もちろん、リズムが崩れすぎるのもどうかと思うし、出来る限り、きちんとご飯食べたいし、家事もきちんとしたい。


今回思ったことは、
重要なのは、形じゃないということ。
その時々を生きているかということなんだなと思った。
その結果の形(状態)は、形(状態)としてそのまま見ていったらいいんだなー。


2014年8月20日水曜日

自分の人生を生きる


お盆の期間、相方と一緒に実家に帰省した。
親戚や前に務めていた仕事でお世話になった方々に
結婚の報告をしてまわった。

その中で思ったこと。

親しくしている人の苦労している姿を見たり、話を聞くと、
その人の苦しみを一緒に苦しもうとしている自分がいたり
その問題を解決できる方法はないかと、
その問題に入り込もうとしている自分がいることに気づいた。

それは相手が何か楽しいことに向かっているような状態でも
同じように起こっているように思う。
相手の楽しみに入り込もうとしている自分がいた。


わたしは、人の人生を生きようとしていたんだなと思った。

何をやっているんだろう。

わたしは、わたしの人生を生きればいいのに
人の人生ばかり見ていたなぁと思った。

だからと言って
周りの人や状況に全く影響されずに、
自分の道を生きていくというのも違う気がするけど。


みんなそれぞれ生きている。

苦しいこともあるし、悲しいこともあるし、嬉しいこともある。
悔しいことだって、どうしようもないことだって。
それは、それで、流れの中で起こっていることで、
まわりの人がどうこうできることではない。

わたしにできることは、わたしが自分の人生を懸命に生きていくことだけ。
そうやって、いろんな大変なことがありながらも
日々、懸命に生きている人たちがいるということを感じながら
自分も自分の人生を歩んでいく。

もし、誰かが手を差し伸べて欲しいと言ってきたなら、
そのときに、自分ができることをしたらいい。


「わたしにできることは、わたしが自分の人生を懸命に生きていくことだけ。」

今は、自分にそう言い聞かせながら、歩んでいる。


2014年8月18日月曜日

知らない

8月2日から4日まで、広島に行き被爆者の話を聞かせてもらう時間があった。
ゲストとして、被爆者の方に来ていただき、参加者もスタッフも全員で円になり座る。
何のお膳立てもない場で、ただただ聞かせていただく時間。
そして、気になることや自分の思うところを語り合う。
そんな場にスタッフとして加わる機会をいただいた。

一日目に尋ねた方は、ご自身の被爆体験を語ってくださった。

原爆が落ちた後は、
痛みや臭さなどに気づかないくらいの状況だった。
わけがわからないまま、ただ生きようと生きた。
そして生きて欲しいとまわりの子どもを助けた。
戦後、一生懸命に生きてきたこと。
生き抜くためにいろんなことをしてきたこと。
そんなことをひと通り話したあとに、
「ばかみたいよね」ぽつりと放たれたその言葉に胸がきゅっとなった。
そして、長い人生の中、語り部として自分の体験を語ることになったいきさつ
も聞かせていただいた。

最後、お孫さんの話や最近好きな曲などの話しになったときに
表情がぱっと明るくなった。


話を聴ききったあと、
感想を言おうとしたら、なぜか涙が出てきてそれを押さえることができなかった。

何が涙になったのか。


私が思い量ることなんて到底出来ないような凄まじい体験をされて
それは二度と思い出したくもないような出来事だったのに
それを語りつごうと決めたのはなぜだろう。
いったいなにがそうさせるのか。
そう決めたその方の強さを感じて、それが涙になったように思う。


話を聴ききることで、感じられることがある。
こんなふうに生きてきた、生きている大人がいるんだということを知ることができた。
そして同時に、「知らないままで、やり過ごしてきた」
そんな自分に気付き、そのことに愕然とした。


話を聞かせてもらうことで、その人と出会えた感じになる。
話を聞かせてもらうことで、その人の中にある景色が
わたしの中に入ってくる。
そのことで、わたしはより満ちてくる。見えているものが広がっていく。
それが人と出会うということなんだなと思った。

だから、わたしはもっとたくさんの人と出会っていきたい。


2014年8月1日金曜日

書き綴る



日々、いろんなことが起こっている。

相方や仲間と語る中で、

気づかされることや心に残しておきたい言葉が度々あったりする

これまでの人生の中でも

こんなにいろんなことが起こることって、なかったと思う。

そんなことを、メモ書きみたいに、書き綴っていけたらいいなと思う。