2016年2月12日金曜日

影舞のこと その2


続けて、去年の夏に書いた影舞の文章を掲載する。

この時に通っていた橋本さんの影舞クラスは、
稽古のような時間で、
影舞をやっている時の、自分に起こる感覚の変化を
丁寧に見ていける時間で、それが面白かった。

自分の中に起こること
それは、自分にしか見えていないもので
わたし以外の誰にも見えていないものだ。

ここに書いているのは、
いわゆるきれいに整った文章ではないのかもしれないけれど
そういうものを、外に形あるものとしてあらわした文章で、

こういうことが「書く」ということなんだと
おそらく初めて実感した。


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2015/07/01 fence works メールニュースNo.116
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前の冒頭文で、影舞のことを書いた。
今回、また冒頭文を書くことになり、あれこれ考えてみたのだけれど、
やっぱり、今わたしの頭の中にホットなものとしてあるのは、影舞らしい。


影舞の何が面白いかと言うと、
わたしの普段の人との関わりみたいなものが、露わに出てしまう感じがあるからだ。
「普段、わたしはこんなふうに人と関わっているのか」
と、その時の自分の姿みたいなものを見てしまう感じがあって、それが面白い。


橋本さんの開いている影舞クラスでは、いろんな人と影舞をするのだけれど
人が変わる度に自分の感じが変わっていることに気づく。


ある人と影舞をやってみると、
自分が指先にいるような感覚になり、その同じ指の先に相手のことも感じる。
そのときには、わたしというものはなくなっている感覚になるのだけれど、
同時に、自分の動くままに動いている感じもある。
まるで、二人の間に二人の空間が生まれて、その空間にいるような感覚になる。


一方で、
必死に指先に集中しようとしたり、
自分はこれでいいのか?と確認しながら動いていたり、
いろんな思いが出てきて、それで頭がいっぱいになっている間に
影舞が終わってしまうときもある。
その時は、相手を感じるというところと、自分を感じるというところ、
両方に慎重になっている感じがある。


最近、この違いは一体なんなのだろうということが気になっていたのだけれど、
ここまで書いて、そういえば、
完全に相手のペースに乗っかってしまうような時もあったなと思いだした。
相手の指の先に私はいないように思えて
その時間がつまらないなと思ったり、相手への気持ち悪さが湧いていたりした。


相手の感じと自分の感じの両方に慎重になっている時は、
自分がちゃんとそこに居る感じがあり
その上で、相手に向かっている感じがする。
それは、自分としてそこに居られたか、
という自分自身の勝負であるようにも思えてくる。


そんなことを思うようになると、
以前感じていた、
その時間のつまらさなさや相手への気持ち悪さみたいなものは、
自分がそこに居なかったから、
自分として相手に向かえていなかったからなのかもしれない。と思える。

それは、まさに、わたしの普段の人とか場への関わりと一緒だなと思った。

この人とはちょっとつきあいにくいだとか
この場はつまらないなとか
そんなことを思っているのは、わたしであって
わたしが、ちゃんとそこに居るということができれば
その人との関係性は変わってくるだろうし、
その場が面白い場になっていくのかもしれない。


そんなことを思えるのが面白くて、影舞に通っている。


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